月刊国語教育2007年10月号

1はじめに

 テストというものはどういうものだろうか?国語のペーパーテストを長年作っていると、授業で身につけて欲しい力がペーパーテストではあまり計れないということがわかってくる。授業中でも「テストで計れる国語の力はほんの一部だよ。」と生徒には言っている。「テストの点数だけ良くてもだめなんだよ。普段の授業の活動や、課題もしっかりやることで力がつくんだよ。」と。

 しかし軽々しく扱うことはできない定期テストは毎年何回かやってきて、ペーパーテストを作らざるを得ない。定期テストが近づくと、子どもたちもテストの点数を上げることを第一に考えるようになる。その意欲を利用して、「テスト問題に出るから、しっかり覚えよう。」と授業中に言っている自分がいる。通常の授業でこの力を身につけて欲しいという思いと、そのほんの一部の力しか計れないペーパーテストにも重きを置いてしまう矛盾を抱えながら、ペーパーテスト至上主義に傾倒しないように気をつけている。

 

 1)全国学力テストで現場はどう変わる?

 全国学力テストが導入されるに至った経緯として、公式な会見は知らない。しかし教育現場の教師として解釈していることは次の通りである。

 2003年にOECDが実施した生徒の学習到達度調査(PISA)において、日本の各学力の順位が前回に比べ大幅にダウンし、特に「読解力」では、前回(2000年)と比べて8位から14位と目を見張る下落ぶりだった。これらをマスコミが大きく取り上げ、「ゆとり教育の弊害」と騒ぎ立てた。政府も「学力向上」を掲げて、「ゆとり教育」の見直しを決め、その学力向上を計る道具として全国学力テストを導入することになった。

 ということは、全国学力テストの点数が高くなれば、「学力向上」がなされたという図式が成り立つことになる。しかし、先に書いたようにペーパーテスト、特に国語のペーパーテストは、国語の能力のほんの一部しか計れない。「聞くこと」「話すこと」は全く計ることができないということからもそれは推測できる。実際に全国学力テストの問題では、記憶された知識を記述する問題がほとんどだった。「読解力」を問う問題もPISAの「読解力」を問うものとはずいぶんと違うものであった(後述)。

 新学習指導要領では、今まで文章読解一辺倒だった国語教育を見直し、「話すこと」「聞くこと」の重視がされてきた。しかし、全国学力テストのような「権威」のあるペーパーテストが導入されると、その点数を上げるための授業がなされていく懸念がある。「話すこと」「聞くこと」が後回しにされるのは容易に推測できる。現実社会で生きていくために必要な国語力の育成が後回しにされていく。

 

 2)現場教師は冷静、管理職は躍起

 とはいっても、こういうことは全国学力テストを実施したからといって始まることではない。もう既に起こっている。高校入試の国語の問題は知識と文章読み取りの問題だけであるし、「進学校」でおこなわれている国語の授業は、ほとんどが模擬試験対策の授業だ。そういう授業を長年受けている子どもは、教師が受験対策の知識を提供してくれるのをただ待つばかりで、自ら考え、何かを生み出そうということをその授業ではしなくなっている*1。つまり、本当の国語力とペーパーテストのギャップは国語教師にとって自明のことであり、全国学力テストが始まったからといって、現場教師レベルでは今更それをどうこうするということはないだろう。

 問題なのは管理職の全国学力テストの結果に対するとらえ方である。多くの教育委員会では結果を公表し、学校への指導(評価)の資料とするはずだ。管理職は躍起になって、点数を上げようとするはずだ。実際に、広島県北広島町教育委員会は、今回の全国学力テストの直前、独自に問題集を作って対象の児童・生徒に解かせ、各学校に正答率の報告をさせていた*2。他の教育委員会や、学校でも同じようなことがされていると容易に類推できる。つまり管理職にとっては「点数を上げる」ことが至上命題であり、現場教師はそれに引きずられて混乱するのが目に見えている。管理職の中にはこの結果を教員評価の資料とすると言っている人もいる。

 そうなれば点数を上げるための「効率的な」こと(ペーパーテストの点数を単純に上げる問題演習や、知識暗記の反復訓練など)がなされ、それに時間が取られてしまって、ますます現場教師は多忙になる。結果的に本当の国語力を付ける時間が無くなり、ますます本当の「学力低下」を生み出す。全国学力テスト実施以前より、「時間が無くて話し合いの授業はできない。」とか、「調べ学習の時間がとれない。」などと現場教師は嘆いているのだ。

 

2PISA型読解力と全国学力テスト

 1)指導要領の「読解」力

 実は高等学校新学習指導要領(1999年3月告示)になって、国語から「読解」という言葉が消えた。それ以前の旧指導要領には「読解」という言葉が「文章の読解」という形でふんだんに使われていた。「読解」とは、辞書には「文章を読んでその意味を理解すること。文章の意味を読みとること。」(岩波国語辞典)とある。国語教育では辞書通りの意味合いで文章の読み取りをすることが当たり前のようにおこなわれていた。

 しかし新指導要領では、それまでの訓詁注釈一辺倒の国語授業を反省し、生きるために必要な国語力を身につけさせようという反省からか、「読解」という言葉は一切無くなっている。

 そこで2003年に起きたのがPISA型読解力順位の大幅な低下(PISAショック)である。しかしPISAの「読解力」というのは、われわれが国語教育において使っているものと全く違っていた。旧学習指導要領に基づいて、授業で訓詁注釈をしていけば身に付いていく「読解力」とは全く違うものである。

 

 2)PISA型読解力

 PISA型読解力の問題は次のようなものであった。

 

    (イ)落書きについて「困っている」という文章と落書きを書く人の立場に立って擁護する手紙形式の文章を読む。

    (ロ)2つの文章はどんなことが書かれてあるのかを答える。(問一)

    (ハ)擁護する文章の中で、例えとして用いたことの効果を答える。(問二)

    (ニ)どちらの文章の内容に賛成するか、文章の内容に触れて説明する。(問三)

    (ホ)文章のスタイルについて説明し、どちらの文章が良い文章かを説明する。(問四)

 

 「落書きは、悪いことだ」ということは、日本人の常識として無批判的に受け入れられるものだ。しかしそれを擁護する文章を読むことでモラルジレンマが発生する。擁護する文章を書く人の立場に立ってみることができるかがこの問題のポイントである。

 OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長は「読解力」について、

 

     この「読解力」とは、単なる読み書きではありません。社会的な道具を使って、社会とつながりをもつ能力を指します。」

 

と述べている*3。

 

 この読解力の問題で日本の正答率が低かったのも問題だったが、「無問」率が非常に高かったことの方が問題である。無問率は参加各国平均の2倍以上の割合である。福田誠治はこれらを分析して、「自分とは異なる意見は、ほとんど受け付けられなくなり、思考が停止してしまうということなのだろうか。」と述べている*4。つまり、簡単にいうと、テストにおいて、脳に記憶しておいたものが出てこなかったり、そもそも記憶していないような場合、どのように答えを導き出せるかが問われる。まさに自分の外(社会)にある「道具」を使って、どう自分の外とつながりをもてるかということが問われているのである。

 

 3)全国学力テストの設問

 全国学力テストの中で、「読解力」の問題を意識したと思われるのは、中学校の問題においては、「国語B」の2である。

 芥川龍之介「蜘蛛の糸」を読み、段落分けや表現のしかたなどの問題に答えたあと、「蜘蛛の糸」の最後の部分(問題文では「三」となっている。?陀多が血の池に落ちていった姿をお釈迦様が見て悲しそうな顔をしてぶらぶら歩いているくだり。)が必要だと思うか、不必要だと思うかを理由とともに書くというものである。

 この出題の趣旨は次のように発表されている*5。

 

     文学作品を評価しながら読んで,次のことができるかどうかをみる。

    ・作品の内容や表現上の特徴をとらえること

    ・作品の展開や心情の変化に着目して朗読する

    ・作品の内容や構成表現上の特色を踏まえ自分の考えを書くこと

 

 この問題を解く側から見てみる。この文章は非常に有名な芥川龍之介の「蜘蛛の糸」である。中学3年生なら、ほとんどが過去に教科書、他で読んだことのある文章である。中学生にとって「名作」と呼ばれている文章は「権威」を感じるものである。その権威的作品の結びの部分が「必要かどうか」という問いに対して、文章「不必要だ」と答えられる中学生がどれくらいいるだろうか?もちろん、「正解」は、「必要だ」と答えても「不必要だ」と答えても、理由がしっかり述べられていればよしとしている。

 設問の導入として、「中山さん」と「木村さん」の会話が次のように載せられている。

 

    中山さん 私はこの「三」はないほうがいいと思うな。

    木村さん いや、この作品には「三」があったほうがいいと思うよ。

 

この記述自体が「なくてもよい」ものだ。この設問には「モラルジレンマ」も「社会とのつながり」も何もない。「出題者が何を求めているかを類推して、それを記述する。」という、どこの教室でもおこなわれているペーパーテストと変わりない。これではPISA型読解力を計る問題自体にはならない*6。

 PISAの設問に対して、日本の受検者は「いったい何を書けばいいのか?」「出題者はどういう意図でこれを出したのか?」という混乱が起こったはずだ。「無問」の割合が高いことからそれが伺える。しかしこの「蜘蛛の糸」の問題ではそれが起こらないことが予想できる。

 

3全国学力テストで現場はどう変わるべきなのか?

 1)学力調査をどう受けとめ、活用するべきか。

 中学生の問題に関しては、先の問題以外で読解力を問おうという意図が見られるものはなかった。他は学習指導要領のもと、教科書で「習った」ものがどのくらい定着しているかを問うものである。「習っていない」ものをどんな手段を使って解決(解いて)行くかは問われていなかった。よって、たとえば漢字のできが良かったとか、語句の問題が良かったなどというのは「たまたま」その問題に答えられたからであって、「漢字力」やら「語彙力」が良かったとは言えないはずだ。

 それでは結果はどう使うべきかというと、「無問」の部分に着目するべきである。どの問題に「無問」の割合が多かったのかということだ。「無問」とは、「お手上げ」ということだ。間違った知識を覚えていたり、「がんばって考えて、結果を出したがだめだった」というのではない。「考えるすべもない」というものだ。この割合の高いところにわれわれ教師は問題意識を持ち、改善していくべきであろう。

 「漢字はやればやるほど点数がとれるから、全国学力テストの点数を上げるために点数を取りやすい分野を中心に授業をしよう。」というふうにならないことを願う。

 

4子どもがどんな国語力をつけることを望むか

 1)ペーパーテストで計れない力、「伝える」力

 今回の全国学力テストで見られた設問形式で、気になったのが「発表」や「話すこと」の力を計ろうとしている問題において、選択肢を設けたり、記述問題にしていることだ。実際に「発表」したり、「話すこと」をしてみたりしないでそれらの力を計ることは不可能だからだ。しかし「計ったこと」にしてしまうとしたらとても怖い。目盛りの間違ったメジャーで力を計って、「力がある」「力が足りない」と言われても困るからだ。そして本当に付けてもらいたい国語の力はペーパーテストでは絶対に計れないのだ。

 最近目の前の高校生の表現を見て、特にもどかしく思うのは、「本当に伝えるべき相手を想定できない」ということだ。過去の国語教育や日常生活で伝えてきた相手(受け手)は「先生」であったり、「周りの仲間」だったりしている。それらの相手(受け手)はかなり好意的に伝え手の意をくんでくれる。どんな乱れた字を書いても教師はほぼ適切に読み取ってくれたり、言葉が足りなくても受け手が言葉を足して受け取ってくれる。自分に好意のない相手には伝えることをしないので、「伝わらない」という経験をすることはない。

 しかし、受け手にはいつも伝わり、伝え手が努力しなくても意をくみ取ってくれるという環境で表現し続けてくると、進路を決めようというときに話す言葉(面接時)や、書く文字や文章(作文や小論文)が、肝心の時に伝わらないことになる。

 内田樹は表現について次のように述べている*7。

 

    よりたいせつなのは「言葉が届く」ということであり、「つじつまのあったことをしゃべる」ことではない。

     今日の初等中等教育では「自分の意見をはっきり口にする」ということは推奨されているし、技術的な訓練もなされているようだけれど、残念ながら、「自分の意見」は「はっきりしているだけでは、聴き手に届かない」というもっとたいせつなことは教えられていないようである。

 

 「伝える」ということは、「伝わったか伝わらなかったか」を伝え手が絶えず気にしなければ上達しない。音声言語においては、受け手の表情や反応を見て、今現在伝えている内容や方法の軌道修正をしなければならない。文字言語においても、この表現は、伝えたい相手はどのように受け取るのかを想像して書かなければならない。そうすることで「聴き手(読み手)に届」けるためにはどうすればよいのかを学んでいく。

 ペーパーテストの答案で伝わったか伝わらないかを計ることができるはずもないのだが、教師が想定した「正解」を書けば「伝わった」と勘違いしてしまう図式ができあがっている場合、現実社会では「ちっとも伝わらない」ということになりうる。現実社会で「伝わる」ようにするためには、実際に「伝えてみたらうまく伝わらない」ということを授業で経験させるしかない。そういう経験は一方通行のペーパーテストでは絶対に得ることができないものだ。