月刊国語教育 2004年5月号 「私の授業レポート 作文共同編集~作文指導の自然な形」

「作文共同編集」〜作文指導の自然な形〜

上越教育大学大学院修士課程2年 片桐史裕

一はじめに

 私たち国語教師は国語の授業で当たり前のように作文を扱います。しかし作文の教育目標は何でしょう?文章を書くことには様々な効果があります。情報を伝える。思考をまとめる。情報を保存しておく。そのような効果を狙わず漠然と作文を課しているように思います。

 多くの国語教室では子どもたちに「○○について。」という課題を出し、作文を書かせて、教師が集めます。その集めた作文を教師は読み、時間があれば感想を書き、もっと時間があれば赤ペンで表現の修正をします。しかし時間がないとA、B、Cという評定だけつけて返すだけになり、ほとんど時間がなければ読まずにほっておかれます。子どもにとって作文は書けば書くほど力が付くと言われます。しかし、教師にとって作文を書かせれば書かせるほど処理が大変なものになり、その学習が無意味なものになっていくという現状もあります。

 そして書かされた子どもにとってみれば何のために書いたのか、書いた文章は良い文章だったのか、書いてどんな力が付いたのかが不明確なまま作文の時間は終わりとなります。これでは作文が好きになるはずがありません。

 この実践では子ども同士で自由に交流できる場を設定しました。そこで構想の段階から文章の推敲、感想などを必要に応じて伝える事により、一人の教師ではできなかった作文を書く過程の指導を、子どもの相互交流によって行いました。

ターゲットを設定した文章

 多くの作文指導は、例えば「運動会について」「夏休みの思い出」というような「過去の情報をまとめ、保存する」といった意味合いの文章を書かせています。しかし社会に出て必要になる「ある特定の時にある特定の誰かにある特定の何かをさせる(してもらう)。」という文章を書く指導はあまりなされていません。このような文章をもっと教室内で指導する必要性があると考えます。

 「伝える」ためには「誰に?」という読み手意識(相手意識)と「何を?」という目的意識が必要になってきます。マスメディアやマーケットにおいては「ターゲット」と呼ばれているものです。ターゲットを明確に設定する事により、子どもたちはターゲットに伝えるために文体や構成を意識するようになります。また、ターゲットを身近な人に設定する事により、その人に質問できるようになります。この実践ではターゲットを周りの仲間としました。そうすることで周りの仲間に自分の言いたい事が伝わったか伝わらないかいつでも聞いて、アドバイスをもらうことができるようになりました。

二作文共同編集

 以上のような共同で作文を書く実践を「作文共同編集」と呼ぶことにします。「編集」としたのは推敲だけではなく構想の段階から仲間と話し合いのできる場を設定し、相互評価も含めたからです。

方法

 三〜五名のグループを作り、そのグループで何を書くか話し合ったり、メンバーの作文を互いに読んだりする活動をしました。課題は「周りの仲間を感動させる文章」としました。一度下書きを提出させ、その下書きをグループ人数分コピーし、一人の作文がメンバー全員に同時に読めるように配慮しました。そして最終的に下書き用紙に書かせ、最終提出としました。

 また、授業中子どもたちがどんなアドバイスをするのか知りたかったので、グループの会話を記録するために一台ずつポータブルのテープレコーダーを設置しました。もちろん、会話の内容で評価するということは絶対にしないと約束しました。

 そして作品の評価は周りの仲間が相互に評価しました。教室にいる全ての子どもたちが作品を互いに読み、四点満点で評価しました。一時間に全員の作品を回すには、一作品につき二分もとれなかったのですが、その限られた時間内での評価となりました。

プロセス

 子どもたちはこの「周りの仲間を感動させる文章」という課題に面食らいました。頭では「感動させる」ということがわかっているのですが、話し合ううちに「感動したこと」の話題になり、そのうち誰かが気づいて「感動したことじゃなくて、感動させるんだよ。」と軌道修正がなされることが何度もありました。(資料一)今まで「自分が感動した」文章は書いてきたけれど、「感動させる」文章は書いたことがなかったからです。読み手意識の欠如した文章を書かされてきた弊害だと思いました。

授業者の関わり

 授業者は「まわりの仲間を感動させる文を作るんだよ。」「みんなの作文がよくなるためなら、何をしてもいいよ。」という二点を繰り返し言いました。そしてなるべく子どもたちの活動を邪魔しないように心がけました。その授業の流れを説明したプリントを配布し、本日の課題の必要最低限の説明だけをしました。余計なことは喋らないようにしました。わからないことがあったら子どもたちが聞いてくるからです。

 また、授業後子どもたちの会話をテープで聞いてみると、今、子どもたちがいい話をしているという時に授業者が大きな声で説明し、子どもたちの返答を求め、子どもたちの話し合いの邪魔をしているケースが何度もありました。そのようなことがないように、とにかく子どもたちの活動の時間の確保を最優先としました。

 当初、子どもたちはとにかく色々聞いてきました。

 「題は書くんですか?」

 「テレビのこと書いてもいいんですか?」

 「自分で話を作ってもいいんですか?」

 授業者は一貫して「それで感動させる作文になるんだとあなたが思うのならそうしたら?」という態度で接しました。全ての判断は子どもたちに任せたのです。そしてそのうち判断を仰ぐような質問は無くなってきました。

三子どもたちの結論

 全国の国語教室での作文指導では、「今日は書き出しについて学びましょう。」「今日は起承転結に着目して書いてみましょう。」「作文には自分の体験を必ず入れましょう。」などと、作文上達のために項目分けし、その項目に着目して指導することが行われます。私もそのような系統だった指導は必要だと考えますが、この指導で欠落しているものは「指導通りの作文を書いて、本当によい作文になったのか?」という子どもたちへのフィードバックと、「教師によって直された作文は本当に子どもの作文なのか?」という作品意識だと思います。

 以下に記載するのは、子どもたちが話し合いの中で導き出した結論です。まわりの仲間を感動させるためにはこのことが必要だと考え、その考えをもとに作品にしました。

一次情報が大事

 自分自身で対象に接して収集した情報(自己の体験・自分が直接インタビューした情報など)を一次情報と呼ぶことにします。他人が収集して編集した情報(テレビ・新聞・書籍など)を二次情報と呼ぶことにします。子どもたちは「人を感動させるには一次情報が必要である」と結論づけました。(資料二)

 子どもたちにとって、それまでの作文指導がここで生かされたという見方もできますが、しかしこの授業の三ヶ月前の作品と比べた時、今回の授業での一次情報作文の比率が圧倒的に高かったのです。(グラフ一)読み手意識(相手意識)と目的意識により、作文が変化したと言えます。この作文は、単に教師が「体験を入れなさい。」と指示して書かせた文章ではなく、子どもたちが「感動させるには体験が必要。」と結論づけて書いた文章なのです。つまり子どもたちが自分で意識的に選択した文章であり、その結果、各自の文章が周りに受け入れられるかどうか(周りを感動させるかどうか)も子ども自身の責任になってくるのです。その結果、評価がどのようになったのか、次の項に記します。

相互評価結果

 講座の人数は17名でした。自分以外の16名が一つの作品を評価します。4点満点ですので最高点が64点になります。相互評価の結果を一次情報作文と二次情報作文で比較すると、一次情報作文は平均点51.5点(書いた人は11名)、二次情報作文は46.0点(書いた人は6名)という差が出ました。「一次情報作文が感動させるには有効。」と判断して書いた結果、周りを感動させることができたのです。自分たちが選択した作文の内容が、周りの読み手に受け入れられているという結果が出たと言えます。この結果からグループの仲間を読み手と設定し、アドバイスを受けながら作文を作るという学習(作文共同編集)は、有効であったといえるでしょう。

四終わりに

 この作文共同編集は、「学校で作文学習をする必然性」にある答えをもたらすものだと思っています。「伝え合う」ということに視点を置いた場合、周りにクラスメイトがいて、そのクラスメイトとの交流がなされないのは不自然です。特に今までの作文学習では「一人で書く」ということを半ば強いていたところがあります。「周りに迷惑かけるな。」「静かに書きなさい。」というように。そしてその時間に作文が書けないと、「家で書いてきなさい。」と、さらに一人で書くように薦めます。

 ところが、我々が社会に出て文章を作る場合、作ってみた文章が伝わるかどうか判断するため、身近の同僚に読んでもらうのは当たり前のことです。何を書けばいいか分からなかった場合、「どうしよう。」と、仲の良い同僚に相談することだって、ごく自然に行われています。子どもたちが文章を書く時だって、同じ事です。これからの子どもたちには周りと共同して物事(仕事)を仕上げるという力をつけさせるべきだと考えます。

推敲のメカニズム

 文章を書いて、それを直すのが「推敲」です。推敲とは、自分の頭の中の書きたいイメージと、実際に文字化した表現の「ズレ」を修正するものです。(注)作文学習ではこの作業を主に教師が行ってきました。物理的、時間的制約から子どもが書いているその場で行うのではなく、完成された作品を集めて持ち帰り、子供のいない所で行います。そうなると、子どもに何を表現したいのかというイメージを聞けず、教師が自分の思いで修正することになってしまいます。ということは、子どものイメージと教師のイメージに食い違いがありながら、結果的に教師が文章をねじ曲げてしまうという現象も起こってきます。

 作文共同編集では、そのようなことはありません。子どもが「分からない。」「どうしよう。」と迷った時、すぐに相談できる環境が全ての子どもに保証されているのです。そして自分の頭の中に書きたいイメージと文字化した表現の「ズレ」をグループの数人のメンバーが修正してくれるのです。教師一人が本人のいない所で修正するより、本人のいる所でたくさんの人が修正した方が、適切な表現になる可能性が高くなると言えます。

本人の作品という意識

 また、自分を含めた複数で表現を考えることにより、完成した作品は「自分で生み出した作品」との意識が強くなります。作文コンクールで優秀な成績を取った子どもに質問したところ、「教師にたくさん手直しされて、自分の作品ではないようだ。」と返答された(注一)ことに象徴されるように、教師が手を入れれば入れるほど、作品が子どもから離れていくということが起こるのです。作文指導の「作品主義」の弊害がここにあると言えます。そしてそのようなことが一般的に行われるからこそ、作文嫌いを生み出す原因となっているのでしょう。

 作文共同編集の授業を行ってみて、作文指導は作品そのものの完成度を高めるより、作品を作る過程に着目し、「どのようにしたら目的を達せられる文章を作ることができるのか」を考えさせる場を設定する必要性があるように思いました。

 

注 内田伸子「子供の文章 シリーズ人間の発達㈵」(一九九〇、東京大学出版会)